成熟経済を蝕む仮定法の亡霊
このまま派遣村は定着して正月の風物詩となるのだろうか。年末から正月にかけて経産相が経済団体の幹部を呼び出し「新卒を採ってくれ」と頭を下げ、閣僚が派遣村に顔を出す報道をテレビで見るに、行政がこういった問題と向かい合ったことは政権交代の成果ではあるが、全く解決の見通しが立たない印象を受けた。去年の今ごろ僕は新卒一括採用こそ問題と書いたが、それは問題の一断面に過ぎず、慣行に過ぎず制度的な介入が難しい。実質的には緩い解雇規制の問題でもない。成長で矛盾は緩和されるが旬を過ぎたロスジェネが救われる訳ではない。だいたい俄造りの「成長戦略」で期待通り経済成長を達成できるか疑わしい。
この正月いくつかの本を読んで本当の問題って実は別のところにあるのかも知れないと考えた。まず『学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識』によると大企業の採用が減ったのではなく大学生の数が増えている。そしてこれまで大企業に入らなかった人材を受け入れてきた自営業や製造業といった受け皿が衰退している。介護・外食などのサービス産業の採用は旺盛だが、無業者はそういった職場を敬遠している。
ミスマッチを贅沢と謗るのは容易だが、意志に反して働かせることは難しい。しかし何故こういったミスマッチが生まれたのか。そこで『クォンタム・ファミリーズ』にあった「ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられるはずのことにも満たされている」という言葉に行き着いた。それは主人公の文筆家には35歳問題として立ち現れたが、身近で社会人としての挫折を経験した人々の怨嗟にも仮定法の亡霊は強く影を落としていたことを強く想起させた。
だいたい誰が勝手に空手形を切って未来を約束したのか。それは子の栄達を願う親であり、子に勉強させる必要のある先生であり、学生を集める必要のある教育機関であり、豊かな青春を描くドラマや映画だろうか、と自分なりに振り返る。僕はそれを信じなかったから中学高校をドロップアウトし、潜った専門学校で夢しか売ることのできていない職業教育の実態を目の当たりにしてショックを受け、大学に入るなり社会で居場所を見つけた。
親も、先生も、良かれと信じて子に刷り込んだのだ。いま自分が親となって子に対して勉強を勧める時だって似たようなことを言わざるを得ない。いずれ世の中がもっと複雑であることを教える必要はあるが、幼稚園や小学生の息子たちに対してヤヤコシイ現実を説明できていない。親や先生だって、そうやって頑張り世の中を信じて生き、時には世の中の理不尽を乗り越えてきた。
親や先生は自分たちの世代と似たような学歴に応じた栄達を信じて子どもを導き、子どもはいい学校に入り、いい企業に入れば親世代と同様あるいはさらに豊かな生活が待っていると信じた。しかしその「決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられるはずのこと」が、就職氷河期に直面した後も行動を縛り続ける。
雇用のミスマッチを巡って近年になって顕在化した問題の本質は、新卒一括採用とか年功序列とか新自由主義の台頭といった個々の現象ではない。この数十年もともと日本はそういう理不尽な二重の労働市場を抱えてきた。けれどもそういった進路は予期され、レールに乗った後の番狂わせは少なかった。ところが成長が止まったことで、ミクロな合理的期待と現実との格差が顕在化した。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和ばかり増えた。
そこで国民の選んだ「人間を大事にする政治」は、最初からありもしなかった幻想としての仮定法過去を取り戻すだろうか。まさか!この殺伐とした社会が新自由主義イデオロギーの所産ではなく、避けがたいグローバリズムと人口動態によって齎された現実として受け止めざるを得なくなる。増税かインフレか、自助努力か社会保障かというジレンマに正面から向かい合わざるを得まい。
雇用のミスマッチを生んだ過剰期待について、定員を増やし期待を煽って学生集めに奔走した教育機関、企業と学生を煽る就職産業、若者の消費を喚起しようとしたメディアの責任は大きいのだろう。とはいえ世の中とはそういうものとして受け入れ、自分なりに再解釈することこそメディア・リテラシーではある。残念ながらそういったことを学校で教えることは難しい。概ね教育よりはマーケティング手法が先行するだろう。そうでなきゃ商売として成り立たないのだし。
今年は人間を大切にしようとする政治が具現化することで、逆説的に過酷な現実が新自由主義者の悪意ではなく、単に手を施し難い構造であることが明らかにされるのではないか。それが需給のミスマッチといった帳尻合わせではなく、結局のところ実存の問題であることを受け入れた時「人間を大切にする政治」はどう再構築され得るのだろうか。
小説の作者とはどうやらたいへん不自由なものでコメントしづらいのだけど、@masanork のこのエントリは、小説の内容にはほとんど触れていないけれど、しかしそれだけに、QFが書かれたひとつの(世俗的で論壇介入的な)動機をとても正確に読み取ってくれていると感じる。
ぼくは考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられるはずのことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りすべてなしとげられるはずのことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
そしてその両者のバランスは、おそらくは三五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。
学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識
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