雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

政策の慣性と、外野の心掛け

融合法制に関するパブコメ公開された。数でいうと圧倒的に放送局の関心が高かったようだ。中間論点整理に対するパブコメだし、個別意見に対して回答が寄せられることはなさそうだが、ざっとみた限り論点は収束しつつあるし地に足の着いた議論に期待したい。融合法制については軽く追っかけていただけなのだが、ネット規制に絡んで考えさせられることがあってコメントした
正直なところ抜本的改革なるものには辟易していて、ロスジェネを追いつめた派遣業法改正にせよ、ねじれ国会を産んだ後期高齢者医療制度にせよ、この融合法制にしても、小泉改革の陶酔とドサクサで敷かれた。政治主導で押し切ったものの、論点とか結果でボロの出る頃には当事者がいなくなっていて、当時は抵抗勢力呼ばわりされていた官僚が批判矢面に立たされるとか、議論の前提や政治情勢が大きく変わっても議論だけ粛々と進んでブレーキの踏みようがない構図とか、どうにかならないものか。
竹中懇談会が2006年、情報通信審議会答申が2009年12月に予定され、2010年通常国会をストレートで通過したとして、省令・告示・通達の見直しに2年かけて施行は最短で2012年。総務大臣は既に2度代わっているし、これからも何度か代わるだろうし、政策や論点もかなり変わっているし、政権さえ代わっているかも知れない。
政治が決めたことは政治で引っくり返せそうなものだが、すっかり忘れられてしまうと手が出ない。問題は意思決定から実施までのタイムラグで政治家も官僚もころころ異動しているところにある訳で、もうちょっと政権が安定するか、政策を迅速に実施するのが王道ではあるが、できればやっているだろうし。
米国の場合これはこれで問題もあるのだが、政権交代すればひともガラッと入れ替わって、これまでの政策を否定する。日本も小選挙区制をやったということは、長期的にはその方向でいくのだろうけれども、今のところ政策プロセスとかマインド的には未だ55年体制を引きずっている感が否めない。
まあ、今の空気で政策が迅速に実装されてしまうと、特にネットとか大幅な規制強化になりそうだし、空転していただいた方が結果的には問題が小さいかも知れず、否そうじゃなくて議論の末に真っ当な方向へ持っていくべきだろうという話もある。それはそうとして真面目に議論するほど議論に集中できる人々が有利になるけれど、それが本当に世の中なり業界の望む方向なのか、よく分からない。分からないけれどもベターな方法がないならば、民主的な手続きそのものの正統性を認めて、関係者の良心を信じるしかないのだろう。
よく知る人々も汗をかいている仕事に対して、ともすればブレーキを踏むことは、あまり気の進むことではないのだが、正しく議論されていれば俄勉強のコメントに対しては的確な反応ができるだろうし、どこかで当事者も抗い難い空気があるならば、天然で突っ込みを入れることが、ひょっとして閉塞感を打ち破る契機となる可能性もある。
なかなか難しいなと思うのは、当事者が分かっているんだけれど大っぴらに指摘されると却って引けなくなるから、生暖かい眼で見守ってやろうぜ、という議論だ。前の会社にいた頃、地デジについて「ハイビジョンはIPTVと衛星同時再送信でいいじゃないか。何千億円もかけてVHFを空けてモバイルで使いやすいUHF帯域を放送に無駄遣いするなんて愚の骨頂」と騒いでいたら、ボスから「郵政省の局長クラスも問題は理解しているし、どう引き返せるか悩んでいる。あまり騒ぐと後に引けなくなるから、そっとしておけ」と怒られた。あれから引き返す努力は諸々あったのかも知れないけれども、今のところ追い証を求められるような状況が続いているようにみえる。
自分が騒いだところで何も変わらなかっただろうけれど、押し黙っていた方が正しかったのか今も悩む。社会の矛盾とか失敗を見据えて状況に関与しようとするのって、それで状況を改善できるかは別として、物事を取り巻く困難さを共有し、膠着状況の中でジタバタするだけでも、表面的な事情だけなぞって政治家や官僚といった当事者を馬鹿だと勘違いして切って捨てるより、ずっと実のあることじゃないかな。
外野から大所高所から見下ろしてクダ巻いて、結局それだけで終わることも、運良く議論に混ぜてもらえることもある。どうすれば議論に混ぜてもらえるかってケース・バイ・ケースだけれども、ソフト開発に例えると「コーディングや運用に当たっての課題や優先順位を理解しようとする姿勢」とか、その根底にある「コードを書くひとに対するリスペクト」が重要である気がする。
Open Source Softwareと違って法案でコーディングを名乗り出ることは難しい訳で、結局のところ評論に留まらざるを得ない場合が多いけど、当事者を突き放して評論に徹するか、当事者を理解しようと努力し困難を共有した上で発言するかで、その表現活動から得られる経験や知見って違ってくる気がするよ。物事を実行に移す難しさを共有できれば、ひょっとして行動に移せる立場のひとに役立つヒントを提供できるかも知れない。「いわれなくても分かっている」としか思われなかったら、それで終わってしまう。
stfuawscって同感だけど、コード書けないなら黙ってろという話でもなくて、結局コードは書けなかったとしても眺めたり書こうとする努力には意味あるし、せめてコードを書いたりシステムを運用する立場の人々をリスペクトし、彼らの努力に対してエンカレッジして、彼らに役に立つかも知れない提案ができるようになれるといいんだろうな、と。

あのねえ、大所高所から見下ろしてつまんない議論でクダ巻いているくらいだったら、さっさと行動に移してアウトプット出してみなさいよ。

はてダって「○○しました」ってエントリーは本当に少ない。
その代わりに「俺は○○だと思う」とか「それは○○であるべきだ」とか「みんなで○○しよう」とか
未実行ステータス、悪く言えば口だけのエントリが多い。
"黙ってコード書け"ではないけど、俺自身今年1年のエントリを振り返って、
「ブログを書いた事で何か現実の形になったものある?」
と問われると特にない。そう考えると、はてダってただの趣味なんだなぁと思う。