雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

脱学校の社会へ向けて

今の学校ってどうしてこうなんだっけ?という件については『天下之記者―「奇人」山田一郎とその時代 (文春新書)』がお勧め。東大設立を巡る紆余曲折がよく書かれているのと、主人公である山田一郎の、帝大卒の超エリートで早稲田の創立者であるにも関わらず、生涯フリーライターっぽく生きているところが憎めない。学校をどうしていくか、という話をすると、ちょっと古いんだがネット黎明期にバイブルのように読まれていた古典で『脱学校の社会 (現代社会科学叢書)』がお勧め、とか書きつつ読んだのが10年以上前だから何が書かれていたか覚えてない。
今の日本が置かれている状況ってポストフォーディズムの側面もあるけれども、もうひとつ開発主義や年功序列の限界・グローバル化といった側面も無視できない。特にここ10年ちょっとの混乱は、経済の長期低迷で愈々開発主義の矛盾が露呈したことの影響の方が大きいのではないか。
従来の教育で重要だったマスプロ的側面はITにどんどん代替され、教員の仕事は課題設定や優秀な学生の組織化、出口戦略といったところに急速に移りつつあるようにみえる。日本のように既存教員の雇用を最重視して見せ掛けの改革ばかり演じていると、いずれ日本の学生からも相手にされなくなる。
今はまだ「産業界がどういった人材を欲しているか」という問いが多いけれども、立身出世もまた近代社会と学校教育を支えるイデオロギーであったことを考えると、近代学校教育が時代遅れになるならば、その背景にあった立身出世といった価値観も見直されるべきかも知れない。引き続きスケールメリットの効いてくる世界も残るとして、そうじゃない世界も広がってくるとして、自分が世界とどう繋がり、どのような経済活動を続けることになるかを考えるとドキドキする。
近代のメリトクラシーとは例えば日本で明治政府が縁故による藩閥政治から高等文官試験による資格任用へと移行したことにみられるように、以前と比べればずっと合理的で筋の通った改革だった。いま進行している状況も、不確実性への対処や業務の専門化に対応するために、以前であれば一元的評価に基づくポテンシャル採用をしていた企業が、徐々に多元的評価に移行し、多様性を重視しつつある動きとも理解できる。それを従来の就職活動的な視点で捉えるから、例えばコミュニケーション能力重視やハイパーメリトクラシーといった全人性が期待されているという勘違いが生じてしまうのであって、現実に起こっていることはもうちょっと複雑だし地に足が着いている。
社会が非常に豊かとなって国際分業や知の開放がますます進んでいることを鑑みるに、想像力を国内で閉じた身内の庇いあいや機会の囲い込みは国内外から華麗にスルーされつつあるし、日本人の新卒同士で有名企業に入ろうと競い合う動きは、伸び悩む経済圏の更にコップの中の嵐でしかない。君たち学問やってるんだったらさ、もっと幅広い視野で自分の可能性を考えてみようよ。僕ら妻子と住宅ローンを抱えたオッサン達と違って失うものがないんだからさ。学問って空気に流されず、理知的に前提を疑うために使えるんじゃなかったっけ。
たぶん次の社会とか次の学校では、立身出世のために型通りの教育を受けて大きな会社に入るというロールモデルではなく、個々人が自分のペースでコモディティ化した知にキャッチアップしつつ、世界に仲間をつくって独自の地歩を築き、世界と関わっていくようなロールモデルが賞賛されるんじゃないかな。弾さんやまつもとゆきひろさんやLinusが賞賛されているオープンソース界隈はその先駆だし、学会はもともとそういう世界であったはずだし、ゆっくりと産業界全般で、そういったロールモデルが増えつつある気がする。
それは必ずしも狭義の企業家精神ではないのかも知れないが、教育機関のひとつのゴールって、そうやって世界を変えることのできる人材を輩出することであろうし、ポストフォーディズムの時代にも巨大組織は引き続き必要だとしても、巨大組織のテクノクラートとして立身出世する以外の方法で、世界を大きく変えることができる。そういう制度は実質的に形成されつつあるし、企業もそういった新たなルールを生き抜く方向で変化しつつあって、これは伝統的なアカデミズムと非常に相性がいいはずなんだけれども、何故か残念ながら日本の大学は己を見失っているようにみえる。
これは日本の大学がアカデミズムを標榜しつつ、実際の歴史的経緯としては海外からの知識吸収と経済発展による近代化への貢献を存在意義に置いてきたことと関係あるのではないか。そういった意味でポストフォーディズムを見据えて大学に求められているのは、逆説的ではあるが開発主義からの脱却とアカデミズムへの回帰なのかも知れない。教育者として学生の進路に責任を感じる誠実さは必要としても、本当に社会が大学の更なる就職予備校化を求めているのか、改めて省みる必要がありそうだ。

ポストフォーディズム資本主義の時代、雇用は流動化し、組織に依存しないけものみちを生きっる人生が選択肢の一つとして十分に有効性を持ち、むしろかっこいいという生き方になった時代には、今の学校制度はダメなのだ。
したがって、私は、世界のNO1を目指せるような抜きん出た人々だけでなく、一般の普通の人々でも、主体的な生き方あるいはこの社会に居場所を感じられるような教育内容が用意された学校制度を新たに生み出す。あるいは、学校なんて制度をいったん捨て去って代替となる制度を新たに作り出し、ポストフォーディズム資本主義社会に適合できる、人間を今後作っていくべきではないのか?と主張したかったのだ。