雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

Rhythm of Life

お世話になっている先生から大学院に行くことを勧められて悩んでいる.
この10年近く仕事ばかりしていて,何かこう情況に振り回されている中で思考のフレームが規定されかかっているのが怖い.本を読んだり人と会ったりしても,それは結局のところ気晴らしでしかなくて,仕事上の課題というのは執拗に想起されるから,発想のフレームはそこから抜けられない訳だ.
じゃあ仕事を辞めて2年くらい大学院とかに専念するとどうかというと,きっと退屈で死にそうだー,とか話が合わないー,とか悩んで結局アルバイトに走りそうな自分がいる.まあ学問をやれば自由になれるかというと怪しくて,斯界には斯界のディシプリンがある.まあ,けど,少なくとも内心の自由のためには,そうやってチャンネルを切り替えるようなことって時々必要だよなという気はする.
終身雇用の役所とか大企業で,20代後半とかに留学させるのは,あれはいい仕組みだし羨ましいけれども,もうそういう時代ではないのだろう.まあ僕の場合は妻子があって首が回らないだけで,転職組でも一念発起して仕事を辞めて何年か学問に専念する,というのは意志ひとつでできるんだろうな.
30にもなるとそろそろ人生の潰しがきかなくなっている訳で,僕のように中途半端なむらっ気があると生き難いものだ.道は自ずから開けてくると信じて,足掻かず粛々と,人と会い,本を読みつつ,仕事で結果を出すべきなのか.けれども結果って何だろう.うーん...
けだし思想とは象牙の塔ディシプリンを会得して静かな思索の日々を送ることで生まれるのだろうか.それとも生々しい現実に当事者として対峙したときに生まれるのだろうか.仮に今の仕事をフィールドワークと規定したとき,没入と抽象化との往復運動を,どういった方法で繰り返すべきなのだろうか.
僕には知的好奇心と,洞察を共有したい自己表出欲求があるけれども,これは論文なりというフォーマットで出すべきなのだろうか.書き殴った記事だって,行為そのものだって,講演だって,それはそれで自己表出であって,何がどれだけ社会に影響を与えるかどうかなんて,結果論に過ぎないのではないか.そういう風に考える自分は,このタイミングでのキャリアチェンジというリスクから逃げ出しているだけではないか.
選べばいろいろな道がありそうな気がするから悩むのであって,日々を生きながら自分の世界を少しずつ拡げていくだけでいいのかも知れない.自分は何が不満なのか.どうして煮詰まっているのか.漠とつまらないとか,どこにいっても打てば響くようなドキドキ感がないとか,そういうことの方が問題だとすると,学問云々とは別の意味でチャンネルを切り替える必要があるのかなあ.
専門性が高まれば高まるほど,どんな変化も無数にある変化のひとつに過ぎない訳で,だからこそ先を読めるし意味づけができるのかも知れない.会うべき人とは決まった期間の中で,かなり会ってしまうのかも知れない.自分が怖れていることが成熟そのものだとすると,それはどこに身を置いても救われないのかも知れない.もっと内心の心の持ちようとか,与えられた環境の中で,どう感動し,前向きに行動する原動力をどこから得るかを考えた方が生産的なのだろうか.